ちょっと感じたこと 2017

○2017年9月23日
 東京電力福島第1原発事故に伴い福島県から千葉県に避難した人たちが、東電と国に損害賠償を求めた訴訟の判決で、千葉地裁は国の責任を否定した。判決では、「巨大津波を予見できたが、対策を取っても事故を回避できなかった可能性があった。」だから、「国に賠償責任はない。」という論法である。
 おかしな論法である。対策を取っても結果的に事故を回避できなかった場合と、対策を何もしなかった場合を同列に置くというのは、何もしなかったことを正当化することになるのではないか。ほかの災害や事故の場合も同じ論法でいこうというのか。
「ほら、やってもやんなくても、どっちみち同じだったんだよ。」と友達や家族の間での責任逃れの口調と同じに聞こえてしまう。
そんな表現が判決文に出てくるとは思いもよらなかった。
同様の訴訟が全国で30件ある。説得力のある判決が出てくることを願う。

〇2017年12月29日
最近になってインスタグラムを始めてみました。写真に特化した投稿サイトで若い世代が多く使っているようです。インスタ映えという言葉があるように、機能の性能がよく、加工も簡単にできるようです。加工という手段は好きではないけど、ちょっと覗いてみようかなと思ったのです。

その部屋に入ってみたものの、どう声をかけたらいいのか、声をかけてもらうにはどうするのかよく理解できないまま、みんなのまねをやってみた。
手持ちの札のようなものを掲げて背中をトントンとたたいてみたら振り向いてくれた。きれいな写真をいっぱい持っていて、会話もしてくれた。その友達も寄ってきてくれた。あなたの写真いいですね、と言ってくれる。ああ。気持ちいい。

「写真好きな人とつながりたい。」「写真を撮っている人とつながりたい。」というコメントが数多くあり、だれかとつながっていたい、みんなと同じことをしていたいと思う若者の中で、なくてはならないアイテムとなっていることがわかったような気がしています。

○2017年1月15日
 真夏の暑いときに、いまはきついから、寒くなったらやろうと決めていたことがあり、やっと重い腰を上げました。それは、押し入れの片づけ。とりあえず、ここで、という精神では、やはり先送りになり、奥へ奥へと送られます。
 その中で出てきた物は、「ああ、これか」というもの。「お二人にとっての最初の共同作業です。」と司会者が一段と声を張り上げる、あれです。結婚式のキャンドル点火に使った大きなキャンドル。
 あれから35年。時にはちょっとした風に炎が大きく揺らいだり、色がきつい黄色になったり、穏やかなオレンジ色になったりと移ろいはありましたが、息子たち3人を社会に送り出し、孫を二人も授かったこの時間は、途切れることのない幸せな一瞬一瞬の積み重ねです。
 このキャンドルのこれからの使い道として、防災用品として使おうと思っています。
 そのとき、このろうそくを中心に不安な顔をあったかい色に変えてくれるでしょう。

○2017年3月12日
 先日、いとこが亡くなりました。脳梗塞で突然に。
 朝、ベッドから起きてパジャマを着替えようとしたときのようです。部屋の掃除をして、買い物に出かけて、と一日の予定を思い描いたごく普通のことができず、ましてや家族に別れのあいさつを交わすこともできずに、本人の意思に反してこの世を去っていきました。無念と思う暇もなかったのではないかと思います。
 よく最後まで元気でポックリと逝きたいね、と話しますが、そのポックリがいつなのかわからないわけで、それも幸せな終わりとはならないような気がします。今になってじわじわと悲しみが押し寄せている感じです。
 東日本大震災では約1万5千人が亡くなりました。だれにも幸せな終わりなどなかったでしょう。突然の別れはその何倍もの人たちに不幸せな終わりの波紋を広げてしまいました。そんな波紋が常に身近にあるのかもしれないと思うのです。

○2017年3月26日
 先日、アンケートに協力してくれというお願いをされました。
 その内容は、地元の小学校で1学年2人などという児童数の減少により、別の小学校に統合され、廃校になりそうなので、みなさんの意見を聞きたい、という趣旨のものなのですが、その設問の内容はとてもアンケートと呼べるものではなかったのです。
 文面では、行政の「廃校ありき」の進め方に問題提起したうえで、文科省の言う「最善の選択」につなげるため、みなさんの意見を聞きたい、と言っておきながら、設問の仕方は、地元のシンボル的なわが母校を残すことは当然という答えになるよう誘導するものなのです。
 行政は説明不足であり、廃校にならないような方策を講じていないことを印象づけさせ、新しい学校に行くことで、プラスマイナス両方あるはずなのに、マイナス要因だけをあげて、不安でしょ、不安だよね、とあおるような表現をして、新しい学校には何もいいことはありません、という印象を与えようとするものなのです。
「廃校ありき」を批判しておきながら、自分たちも「残すことありき」で進めようとしているのです。こんなひどいアンケートは見たことがないです。
 有志として意思表示をしたいのであれば、廃校反対の署名活動をした方が、はっきり、すっきりするのではないかと思います。

○2017年6月10日
 毎日、いやあな気分である。
 最近の安倍政権の傲慢な態度にはあきれるばかり。首相が議員を小ばかにし、大臣も何の知識も何の配慮もなく、言いたい放題。報道の記者に対してもきちんと説明する気持ちが全くない。ということは、国民の存在を全く意識していないということなのだろうと思う。 
 その国民に成り代わって権力を監視することを使命とする報道を見ていると、残念なことに報道陣としての誇りが感じられない。自分たちの後ろに国民がいることを忘れているのだろうか。きちんとした説明がないのに、それ以上突っ込むことをしていないのはなぜなんだろうと不思議でしょうがない。芸能人が悪さをすると、徹底的に言葉の暴力を浴びせるのに、相手が政治家となると急に軟弱になる。ちょっと確認作業を行えば、その言葉の不誠実さや確かな根拠を持たないものとかの突っ込む材料はいくらでもあるはずだ。報道に「忖度」という言葉は必要ない。権力に屈したらどうなるか、恐ろしいばかりである。

○2017年7月9日
 九州では大雨の影響で避難指示や避難勧告が出されていた。そういう時に自分の地域の雨雲はどうか、これからの雨量はどうか、などテレビやインターネットからの情報を注視し、対応の必要があるか判断することとなる。
 これがミサイルだったら、どうする?
 弾道ミサイル落下時の行動について、政府広報として、新聞広告やテレビCMで一斉に流され、避難の方法を周知しようとしている。
 弾道ミサイルは発射からわずか10分もしないうちに到達する。
政府の全国瞬時警報システム「Jアラート」でメッセージが流れたら、屋外にいる場合は「できる限り頑丈な建物や地下に避難する」、建物がなければ「物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守る」ということなど、懇切丁寧に表現している。
 よし、そうしよう、という人がいるだろうか。ミサイルが飛んで来た時に、地面に伏せただけで身を守れるなんて信じる人はいないだろう。
 これは、外敵の存在を強調して、国内のささいな問題に固執している場合じゃないぞ、という印象操作をしようとしているのではないか。そして、マスコミは政府の広報機関としての使命を果しているとでも思っているのだろうか。

 

○2017年9月4日
 安倍首相の言葉にはどうしても違和感を覚える。
 北朝鮮のミサイルが日本上空を通過したことについて、「これまでにない深刻かつ重大な脅威」と強い表現をしていたが、そこまで言う根拠はあるのかな、と思ってしまう。今まで沖縄上空を飛んだりしているのだから。危機をむやみに煽っているように聞こえてしまう。
 さらに、首相は「政府としては発射直後からミサイルの動きを完全に把握している」と断言している。完全なんて簡単に使っていい言葉なのだろうか。ならば、Jアラートを発信させるのは北海道だけでよいのではと思うし、把握できるのであれば、国民に不安を抱かせない方法があるのでは、と思う。
 かつて、オリンピック招致の際に福島第1原発の事故について首相は「アンダーコントロール」と発言した。このときから、この人の発言には注意しなければと思っていたが、さらに怖さを覚える。

○2017年10月28日
 この選挙で何か変わったのだろうか。
 またしても投票率は低く、53%。有権者が1億600万人だから、投票しなかった人が4900万人もいたということだ。投票した人の中では比例区で見ると、自民党に投票した人が1852万人である。

 これを100人で換算してみると、今まで通り自民党の安倍さんでやってくださいと言ったのは17人だけである。なのに「国民の皆さんの信任を得ました。」という言葉につながってしまう。36人が異議を唱えても、47人は何も言わない。だから、何も変わらない。このままの道はどこへ行くのだろうか。
 
この47人はどう思っているのだろうか。今のままでいいんですよ、なのか、どうせ変わらないと思うのか、そんな余裕さえもないのか。
結局、何も変わらないということか。