(11)顔
 
 東日本大震災直後、東京電力や政府など原発関係者から異口同音に「想定外」という言葉が連発されていた。その言葉のニュアンスとしては、「想定外だから仕方がない、自分には責任がないんだ」という主張と読み取れてしまう。
 「想定外」これは「うそ」である。ちゃんと想定できていたのである。
 1998年、津波防災に関連する国の省庁の提言の中で大津波は予想されていて、電力会社もその危険性について注目していた。2002年には、三陸沖から房総沖の帯状の領域で津波をもたらす地震の発生が予測され、のちの2008年の東電のシミュレーションでは最大15mの津波を予測している。2006年、東電は10mを超える津波により全電源喪失となる危険性を正確に予測していた。
 津波で重大事故が起きるリスクが高いという情報がありながら、対策に結び付けていない点が大きな問題である。これは電力会社が対策のための膨大な費用が生じないよう、想定基準を低く抑え込ませたり、見直しを先送りするよう画策した結果である。失礼ながら、東電社長の仕事のためならどんなうそでもつきます、みたいな顔が浮かんできてしまう。その規制庁である原子力安全・保安院も自分の保身のためなのか、その場しのぎの技なのか、情報を安全対策に結び付ける対応をしていない。
 その責任はどこに、誰にあるのかあいまいである。政府と東電は津波は予見できなかったと裁判で主張している。責任は自分にはないと思っていれば、そこには反省もなく、再発予防を考える流れにはいかない。
 この状況の中で、安倍総理は国会で、再稼働に求められる安全性は確保されていると述べている。事故原因も特定されていない段階で「安全」だという言葉を使って再稼働に強引に結び付けようとしている。よどみなく答弁する総理の顔は現実世界から離れた宙を見ているようで恐ろしい気がする。(2015.3.7)

(10)神話の世界にようこそ

 天照大御神(アマテラス・オオミカミ)って、女性なんだ。
 宮崎県の青島や高千穂を巡る旅に参加しての感想です。初詣にすぐ近くの宗像神社に行くことが年中行事になっていますが、神様についての知識はほとんど持っていません。この旅の中で、神様や神話についてちょっとだけ触れてきました。
 そんなとき、新聞を開くと、書籍の広告の中で「古事記」の現代語訳が刊行されたとのこと。その紹介欄に、「世界の創成と、神々の誕生から国の形ができあがるまでを描く最初の日本文学」との表現があり、アマテラスやスサノオノミコトという文字がありました。恥ずかしながら、古事記の内容についての知識は全くなく、 「古事記」と「アマテラス」が結びつくなんて考えも及びませんでした。がぜん興味が湧き、すぐに買い求めました。
 作家の池澤夏樹訳・編集で、上段に本文、下段に注釈という形で360ページに及ぶ。天地の始まりから、イザナキとイザナミの国生み、神生み、スサノヲとアマテラスの対立など、神々が生まれ大地が造られ、人間社会が構築されて天皇による統一へとつながり、神武天皇の恋、ヤマトタケルの冒険と死など、英雄、美女の恋や野心、天皇を巡る女たちなどの物語が次々に展開する。それは、劇画的な、総天然色の映画のような、言葉が映像として飛び込んでくる感覚となるのです。
 この古事記という作品は、戦前の一時期、国民一丸の戦争協力体制を組み上げるために利用され、それが戦後の古事記嫌いや神話嫌いを作ってしまい、学校の教育現場からすべての神話が排除される原因にもなったということだそうです。そんなことも今回初めて知りました。
 古事記と神話が宮崎の旅によってつながりました。ちょっとした行動や気づきが新たな結びつきにつながるということをこれからも大事にしていきたいと思っているところです。
(2015.2.16)

(9)情けは人の為ならず

 ある研修の中で出てきた講師の話であるが、独居老人とホームヘルパーとのやり取りがうまくいかなかった事例をあげ、これは、ボランティア活動をしたことがない人は、人に頼る仕方を知らないようだ、というとらえ方をしていた。この表現が妥当かどうかはわからない。
 一人で生活している中で、自分のできること、できないことがあり、人にやってもらいたいと思いながらも人に頼るようなことはしたくない。だけど体は思うように動かない。そんなプライドと現実に直面しながら、日々、葛藤しながら過ごしているのではないかと思う。

 私は、いま、ボランティア活動を二つしている。一つは、音訳ボランティア。「音訳」と聞いてすぐにわかる人はいないと思う。これは市の広報誌などを読み上げてテープやCDに録音し、目の不自由な人に届けるというボランティア。自分が文章を読み上げるだけで人の役に立つならばと、簡単に考えていたが、ラジオのニュースを伝えるアナウンサーのような、正確なアクセントとしっかりとした滑舌が必要だと研修によっていきなり思い知った次第である。
 もう一つは福祉有償運送事業の運転者。これは、公共交通機関を利用しての移動が困難な要介護状態にある高齢者を医療機関などへ送迎するという車の運転と簡単な介助を伴うボランティア。これも研修によって、普段の車の運転のいい加減さを思い知った。ウインカーを出すのが遅いことや片手運転を無意識にしていることなどを指摘されてしまった。
 人のためになるならば、という思いで行動を起こしたのであるが、人のためになるような技量を持っていないことを痛感した。言葉をはっきり表現できなければ情報がきちんと伝わらないものであり、車の安全運転を正確にできなければ相手を傷つけてしまうことになる。
 このボランティア活動は、まずは自分自身を磨き、基礎を身に着け、その応用として人の役にも立つ、といういくつかの段階を経る必要があるようだ。それは、自分自身を知り、できることとできないこと、人に頼るところはどこかということを見極める目を養うことにつながるのであろう。(2015.1.4)。

(8)どちらでも可
 
 先日、東京の六義園の紅葉の写真を撮りに行ってきた。ここは夜のライトアップもやっている。自分としては、ライトアップは自然ではなく加工品なわけで、あまり被写体としては興味がわかない部分ではあるが、見た目には普段見ないものであるので、それなりにきれいではある。
 最近は、全国のあちらこちらで、このライトアップやイルミネーションが盛んに行われているが、街の活性化や経済効果という点で効果はそれなりにあるということになるのだろう。
 でも、この光景を見ているときに思うことは、節電という言葉がどこかへ消え去ってしまっている、ということだ。LEDライトだから省電力だとしても、何十万、何百万個も使うとなれば大きな数字となるはずである。
 経済産業省のホームページでは、電力供給の見通しは予断を許さない状況であるとして、個人や事業者に節電を呼びかけている。「電力需給ひっ迫警報」というものも出るそうだ。
 福島原発の事故以来、原発政策や原発の再稼働問題、電力の安定供給、電力料金の値上げ問題など結論の出ないような議論をしてきた中で、少しでも電力の使用を減らそうと節電の努力をしてきている。会社や工場だけでなく、個人の家でも、電気の消灯や冷房の設定温度、冬は厚着をしてなるべく暖房をつけないなど、微力ながら節電に協力している。
 そんななかで、マスコミが、イルミネーションと節電、そして原発、というキーワードをもとに疑問を呈する場面があってもよいのではないかと思う。
 日本の将来を操ろうとする人たちは、「こんなきれいなイルミネーションが見られるような、今のような快適な生活が送れる、これを維持していきたいでしょ、そのためには原発が必要なんだよ。」と説いてまわり、一方で、「電力が足りないんです。節電してください。原発があれば、こんなことしなくてもいいんですけど。」と説いてまわる。どちらにしても原発再稼働に目が向いている。
 これは今回の総選挙に似ている。「消費税について延期をします。」と言われれば、「そうか、助かるよ、じゃ自民党に投票しよう」ということになり、「消費税は延期はしますが必ず10%にします」と言われれば、「確実にやるなら延期でもいいよ。自民党を信用するよ」ということになる。どちらでも同じなのだ。(2014.12.3)

(7)ピント

 カメラで写真を撮るときはオートフォーカス、つまり自動でピントは合います。風景写真は自動にまかせればいいのですが、花のクローズアップ写真を撮るマクロレンズを使う場合、手動のときもあります。ピントを合わせる部分を花びらにするか、めしべの先端にするか、何を主題にするかによって写真の雰囲気が大きく変わってくるので、ピント合わせに神経を注ぎます。その時困るのが自分の目が老眼だということです。メガネをかけないとピントが合っているかどうか確認できないのです。これがけっこう面倒な行為なのです。
 最近の新聞などのメディアの行為を見ていると、ピントが合っているのか疑問を感じます。朝日新聞の従軍慰安婦問題や東京電力福島第1原発の報道やそれに対しての議論はよく理解できません。慰安婦問題の記事の取り消しやその検証がなぜ今なのか、慰安婦の存在自体がなかったかのような議論もあります。
 福島第1原発の「吉田調書」の記事について、記者の思い込みとチェック不足という失笑してしまいそうな理由で謝罪していますが理解できません。手に入れた調書の中で、原発所員が命令に違反して撤退した、という部分ではなく、政府が重要な資料を公開することに消極的だった、ということを問うべきです。原発事故で何が起こったのかを国民に伝える、という根本的な仕事をしていません。
 メディアが他のメディアをバッシングしている構図は恐ろしささえ感じます。標的ができたとばかりに自分のことは棚上げにして感情的に相手にダメージを与えようとしているところは、いじめです。インテリの対応ではありません。原発に関して、一昨年、17万人が参加した反原発の抗議行動をほとんどの新聞が記事にしていません。
 自分は常に物事を自分のこの目で正確に見ている、どこに主題を置き、国民に何を伝えるか、きちんと考えている、と記者は思い込んでいるようですが、あなたの目は老眼です。ピントが合っているかどうか自分では確認できません。適正なメガネが必要ということを認識してください。(2014.10.7)

(6) 濃密な時間

 今年ももう7月、半分が終わった。時間の立つのは早いものである、と年を取るとともに感じるようになってくる。同じ時間を長く感じたり、短く感じたりするのだから、不思議なことである。
 これは、新しいことをたくさん覚える若いうちは時間が長く感じ、、経験を積んできて記憶することが少なくなると、時間を短く感じる、ということのようだ。
 夫婦で一泊あるいは二泊の旅行に行き、自宅の車庫に着いたときに、あぁ、終わっちゃった、あっという間だったね、という感想になる。これは、新たに記憶するようなことも少なく、それほど感動していなかったということになるのだ。
 だけど、今回の旅行は違った。息子夫婦と孫たちとの6人の一泊の旅に出かけた。
 3歳の女の子は実に魅力的である。その発する言葉やしぐさは私の想定を超えている。さっき、楽しいね、と言ったかと思うと、今度は、全然楽しくない、と笑顔で答える。気持ちとは裏腹の表現を即座にやってのける。きれいな建物の前に行くと、ねえ、写真撮って、とモデル並みに女っぽいポーズを取るのである。かと思うと、抱っこぉ、と甘い声を放つ。彼女の一挙手一投足に翻弄される男となってしまった。まだ3年しか生きていないのに、ここまで成長するのかと感心してしまう。
 この2日間は、驚いたり、感心したり、癒されたり、と濃密な時間を過ごすことができた。私の脳細胞はフル回転し、記憶に留めていった。
 うちの車庫に着き、久しぶりに時間の長さを感じたのであった。
(2014.7.1)

(4)自立
 
 最近、高校生や大学生の入学式、卒業式に親が出席するという話をよく耳にする。人生の節目を家族で祝おうということは絆の形として必要なのかな、という気持ちにはなるが、子供への親の対応として、それで本当にいいのか、という思いにさせられるような出来事も起きている。
 最近の話題として、高校の教師が仕事を休んで、高校生になる自分の子供の入学式に出席したという話。
1年生の担任教師という立場で入学式に臨むべきところを自分の子供の方、保護者という立場を優先させてしまったのだ。
 今年の2月、東北大学の入学試験のため、駅から大学までの臨時バスでのできごと。受験生と一緒にバスに乗り込む親が大勢いて、そのあおりで受験生が乗れず、大学も30分開始時間を遅らせたそうだ。
 入学試験、就職活動、そして婚活まで、親として子供のために涙ぐましいまでの努力をしていて、相当のエネルギーを使っているが、「わたしは親としてきちんと対応しているわ」という親の自己満足の世界に浸っているだけのことではないのか。
 「親が何もしてやらないと、息子は息子なりに自分で考えるもんだね」と以前、親戚の人に話したら、親が何もしない、という点で納得されてしまって、がくんときてしまったが、親の仕事というのは、形に表れることではなく、子供に自立を意識させることではないか。息子たちは、自分のことは自分で考えていると私は受け止めている。
 長男は、大学入学以降、就職、結婚について、親のアドバイスのチャンスもないうちに、あらら、あらら、とすべてをひとりで決めていった。
 次男は、いまだにプロボクサーとして、フィジカルの鍛錬をしなければ、と意欲満々である。
 三男はラフティングのガイドの資格を取るため、改めて仕事に取り組んでいる。
 私は、今までの組織の中での自立ではなく、個人としての自立が必要であると意識している。まずは、妻に頼らない自立を目指さなければと思っている。(2014.4.21)

(3) 見えない線

 避難指示解除準備区域 年20ミリシーベルト以下
 居住制限区域 20から50
 帰還困難区域 50以上
 自分の住んでいた地域が線引きされ、それにより苦渋の選択を強いられ、それぞれの人生が大きく変わっていく。
 年20ミリシーベルト以下だから安全です、だから帰還できます。と、国は言う。だが、住民は、年1ミリシーベルト、毎時0.23マイクロシーベルトが基準ですと国は言ったでしょ、だからまだ安全とは言えないでしょ。と思う。
 おじいさん、おばあさんは、放射能については、老い先短いから気にしないし、「家」「土地」「地元への愛着」というキーワードがあり、帰ることを選択する。若い世代は子供への健康の影響を考えれば、毎時0.23以下かどうかがポイントになり、帰らないと判断する。
 家族の世代の分断だけでなく、夫婦の中でも、生活設計についてのとらえ方の違いにより、ぎりぎりの生活となり、楽しい出来事もなく、夫婦の会話もなく、歩み寄るすべもないまま離婚という選択をすることとなる。
 生活を支えるために親子が離ればなれに生活し、子供たちは転校を余儀なくすることとなる。
 区域による保障額の差が、いままで親しかった人の中にひずみを作り出し、地域内の交流を分断する。
 目に見えない線が幾重にも張り巡らされ、人々の心を分断させている。
 放射線よりも強い、目に見える絆という線でつなぐにはどうしたらよいのだろうか。
(2014.3.9)

(2) 静かな喫茶店

 会話のもれ聞きを防ぐ会話保護システムというものがあるそうだ。これは、役所の窓口などのオープンスペースで妨害音を出して、会話の個人情報を保護するためのスピーカーを設置するもの。音は川のせせらぎや都会の雑踏の音を組み合わせたものである。プライバシー保護のために声を音で打ち消そうということなのだ。
 世の中に音があふれている中で、静かな喫茶店に入り、おいしいコーヒーを味わいながら本を読む。こんなちょっとした望みなのだが、そんな喫茶店がなかなか見つからない。ドトールコーヒーやスターバックスコーヒーは店内に音楽を流していたり、お客さんの入れ替わりが結構あり、ゆったりとした雰囲気ではない。ある店では、わりと静かでゆったりとできそうだったが、間仕切りのないワンフロアなので、会話を楽しむグループが入ってくるとその大きな声が店内中に響くこととなる。本に集中しようとするが どうしてもその会話のひと言ひと言が脳の中まで入り込んでくる。
 そんなとき、先日行った御茶ノ水駅前の喫茶店「穂高」を思い出した。学生時代、このあたりには「ウイーン」「丘」「世界」や「談話室 滝沢」などがあったが、だいぶ前になくなっているようだ。
 「穂高」ではお客さんが席を埋めていた。電車の音や会話の声が聞こえてきたが、ほどなく読書に集中できるようになった。声をしぼっているようで、隣の席の人が何を話しているのか聞き取れない。ざわざわ感はあったが、それが抑揚なく続いているせいか、それほど気にならなかった。これは、脳の方で会話保護システムならぬ読書保護システムが働いて、雑音をバックグラウンドミュージックに変えているのだろうか。とすれば、人間の脳はやはり、すばらしい。(2014.3.2)

(13)出番ですよ
 数年前、ホームヘルパーの資格取得のための研修で介護付き有料老人ホームの仕事を体験した。
 こういう施設の職員は若い。多くが20代、リーダーとなっているのは30代前半。この若い人たちが介護の現場を支えている。24時間体制の中で、早番、遅番、夜勤があり、排せつ介助、食事介助、入浴介助などに相当な体力を使う。若いということで対応できる部分である。
 だが、もう一つの面がある。程度の差こそあれ、ほとんどの人が認知症である。毎日何回も排せつ介助を行い、毎日何回も同じことを繰り返す会話を聞き、毎日徘徊し続ける人を目で追いながら神経をとがらせる。ありがとうの言葉ももらえず、治るあてなどない日々を過ごしている年老いた者の姿を若者は受け止めきれない。職員は疲れている。
 離職者が多い理由としては、きつい労働ということもあるが、病院の看護の中なら病気が治るという結果があるのに、この施設の介護では努力の結果がどこにも出てこないということが大きな理由ではないか。やりがいのない、結果のない世界に若者は耐えきれない。
 そこで、出番となるのがお年寄り。今の年寄りは二極化しているそうだ。自分の楽しみに忙しくて時間のない人たち。くたびれてエネルギーがなくなっている人たち。どちらも現役時代に一生懸命に働いたからであろう。
 この人たちは、現役の時にいろいろな経験をして、さまざまな特技をを身に着けている。一つは、「聞き流す」ということ。上司や顧客に何を言われても、はいはい、そのとおりでございます。と言って、その場をやり過ごすという技術を持ち、やりがいのない、結果の出ない世界に長年浸っていても、じっと耐えること、その術を知っている。
 体力を使う部分は若者に担ってもらって、精神的な対応が必要な部分は経験豊富な年寄りにおまかせください、という区分けで、自分の時間を先輩の方々のための労働に回せば、みんながハッピーになれるのではないかと思うのです。(2015.6.28)

(12)ある投稿から
 未来への手紙プロジェクト

  2015年4月25日
  「生まれてきてくれてありがとう」
  印西のばぁばさん

 凛(りん)、もうすぐ4歳のお誕生日ですね。
 本当に大きくなりました。パパやママの似顔絵、見ましたよ。上手にかけたね。
自転車の練習もがんばってるね。こんなに元気に育ててくれた、ママとパパに感謝だね。
あなたがおなかにいて、ママは明日から産休に入るという日、震災にあいました。ママは職   場に残ろうか、それとも自宅に向かおうか迷ったそうです。結局、お友達の車で10時間以上もかけて家に着いた時は、じぃじもばぁばもどんなにほっとしたことか。
 そして、ひと月後、あなたは我が家にとって73年ぶりの女の子として、無事に生まれてき    てくれました。神様は教えてくれたんだよ。あたりまえだと思うことが、本当は奇跡の積み重   ねだということをね。
 おままごとも、ピンクの靴もすっかりなじんで、おひなさまを飾るのも手際よくなりました。    来月のお誕生日、じぃじもばぁばも楽しみに待ってますよ。風邪をひかずに元気でね。


「未来への手紙プロジェクト」は、赤ちゃんが生まれた喜びを手紙に残す運動です。プロジェクトでは、赤ちゃんの手紙を募集し、その中の1通を、毎週毎日新聞の紙面で紹介しています。選考は、この運動がきっかけとなった歌「君が生まれたあの日」を作った歌手加藤登紀子さんが行っています。
また、選ばれた手紙は歌手の加藤登紀子さんが朗読し、専用サイトで聴けるようにしています。
 
  サイト→未来への手紙プロジェクト

私のエッセイ 2014~2015

(14)伝わる伝え方
 修学旅行で長崎を訪れた横浜市の公立中学校の生徒5人が、被爆の語り部に対して「死に損ない」と暴言を浴びせたそうだ。その語り部は、戦争の真実を直接に伝えようとしたが、それが難しく、それなりの工夫が必要だと感じ、学校の先生を通して伝えてもらうこととしたそうだ。 この生徒の感じ方としては、ちぇ、うぜえな、と同程度の言葉なのかもしれない。「だから、今どきの若者は・・・」という言い方をしようとするのではない。自分たちがその年代のときには、言葉に出さないまでも同じような感じ方をしたのではないかと思うのだ。
 我々50歳代、60歳代は戦争を知らない子供たちであるが、東京大空襲、学徒出陣、特攻隊などについては理解しているつもりである。でも、死体が山と積まれた悲惨な写真を今の子供たちに見せて、「どうだ、これが戦争というものだ」と言っても、あなたが見たわけじゃないでしょ、と言われれば、その通りと答えるしかない、という世代である。
 70年前、地獄のような体験をした80歳代、90歳代の方々が、本当は思い出したくない、だけど、今、言っておかなければ、という思いから出る言葉は、悲惨であり、現実に起こったものとは思えない、我々の想像を絶するものである。我々が想像できないほどの出来事を次の世代に伝えることができるのだろうかと思ってしまう。
 テレビ、新聞で、今年は特に70年という節目だからであろうが、連日連夜、戦争を取り扱っている。その中には、アメリカ側の機銃掃射に連動して撮るガンカメラの映像や、原爆投下の直後の写真から推測される人々の行動など、いままで見たことのないような情報が発信されている。  
 この情報を悲惨な写真であるという観点ではなく、そこから読み取れる事実は何か、その中に伝えなければならないものは何か、という観点が必要だと思う。そして、それを伝えた、ということだけではなく、相手に伝わったかどうかという点が大事である。
 我々の年代は、歴史の中で何が起こったかをしっかりと検証し、戦争体験を継承していくことができる世代であり、それを次の世代に伝えることが我々の世代の役目なのだと思う。(2015.8.16)

(16)座り過ぎ

 今、世界各国で座り過ぎが健康に悪影響を及ぼすとの研究が相次いで発表されているそうだ。
 立ったり歩いたりしているときは脚の筋肉がよく働くが、座ると、全身の代謝機能を支えてきた脚の筋肉が活動せず、糖や中性脂肪が取り込まれにくくなり、血液中に増えてしまい、さらに座った状態が長く続くことで全身を巡る血液が悪化し、血液がドロドロになる。その結果、狭心症や心筋梗塞、脳梗塞、さらに糖尿病などのリスクが高まる。
 ある調査では、1日11時間以上座っていると4時間未満の場合と比べて死亡リスクが40%高まるとのこと。
 自分の場合、車通勤であり、仕事はほとんど座った状態。家の中でも、ソファーに座って新聞を読み、椅子に座ってパソコンに向かう。立っているのは散歩のときだけと言ってもいいくらいである。この生活が死亡リスクを高めるということであれば、なんとかせねばと思い、すぐにホームセンターへ向かった。目指すは高さ40センチの台。
 部屋にある作り付けの机の高さは75センチ。その上に買ってきた40センチの台を置くと、115センチとなる。立ったままでパソコンを操作するのに最適な高さにしたのである。
 なかなか新鮮な気分でパソコンに向き合っている。長時間だらだらとインターネットを見ることが少なくなり、その分・・・あらっ、その分、ソファーに座ってテレビを見ているではないか。なんだか頭がドロドロになってきたぞ。(2015.12.12)

(5)重箱

 東京電力福島第1原発事故の影響に関する描写が議論を呼んだ人気漫画「美味しんぼ」を掲載した週刊ビッグコミックスピリッツ。その編集部としては、「低線量被ばくの影響についての報道が激減している中、問題提起したいという思いもあった。」との意見を述べていた。だが、残念なことに今のマスコミにはその提起を真正面から受け止める技量がないように思えるのだ。
 「放射能と鼻血」その関係は本当なのか、真実を言っているのか、という点だけに焦点を絞った討論をしているだけで、それはいわば、重箱のすみを突っつくようなものである。
 重箱の真ん中にあるのは、「除染の効果」ということである。福島県知事はこの掲載内容に不快感を示していたが、それは地元としては当然だろうが、環境大臣が不快感を示して、「除染の効果は得られている」という発言をしている。除染の効果をどのように把握してこのような発言をしているのだろうか。私にはまったく理解できない。マスコミは理解しているのだろうか。
 復興のための第1段階である除染が進んでいないことによって、復興の目指すべき目標地点はどこなのかはっきりせず、足元が固まっていないがために今回のような、ちょっとした風がふいてもみんなのこころが揺らいでしまうのである。まずは除染である。
 その除染の実施内容は数字的には、6割、7割ということだが、このパーセンテージの分母は何かというと、住宅、道路や山林の淵から20メートルが除染の対象であり、そのうちどれだけ終わったか、とうことだけであり、これは面ではなく単なる点である。その点のかたまりをとらえて、それが効果あり、という言葉に結び付けられるわけがない。マスコミはこの視点で、今の福島の状況、国の対応というところまで情報発信していくべきだろう。
いや、知っているはずだ。
なぜ、動かない。(2014.5.20)

(1) もうそろそろ満足してもよろしいのでは

 不満を口にしていると、不満を感じることがしだいに増えてしまいます。
 満足なことを口にすれば、満足だと思えることが増えていきます。
 生活の満足度調査を実施すると、暮らしや環境についてのたくさんの不満が現れてきます。これは、何か意見がありますか、という問いに対しては、十分満足です、という言葉は表現されず、不満な事柄のみが出てきやすいということもあるでしょう。また、現状に満足しないことが向上につながるという考え方もあるでしょうが、それにしても、もうそろそろこの辺で満足してもよろしいのではないですか、ということを感じます。
 ・公園が小さい。遊具が足りない。
 ・コンビニ、スーパー、郵便局が歩いて行けるところにない。
 ・鉄道運賃が高い。
このように不満に思う人たちに対し、
 ・小さいかどうかの前に公園が近くにありません。
 ・コンビニなど近いかどうかの前に生活圏内に存在しません。
 ・運賃が高いかどうかの前に近くに駅がありません。バスも通っていません。
このように利便性を問う前に、生活の基礎、基盤が整っていない人たちがいるのです。
 いまの自分の生活レベルに満足すれば、それが幸せだと感じることができると思います。私は幸せだけど、あなたたちはまだまだたいへんね、という上から目線でも構いません。幸せを感じれば周りの人たちにも目が向けられるのではないでしょうか。
(2014.1.12)

(15)口笛
 普段の生活の中でそんなにショックを受けることはないが、今回は震度5弱くらいのショックとなった。口笛が吹けない。音が出ないのである。以前は何の努力もせずに吹けたのに。と言ってもその以前がいつのことか自分でも判然としないが。
 私は今年から音訳ボランティアをやっている。これは市の広報誌などを読み上げてCDに録音し目の不自由な方に届けるというボランティア。自分が文章を読み上げただけで人の役に立つならばと簡単に考えていたが、ラジオのニュースを伝えるアナウンサーのような正確なアクセントとしっかりとした滑舌が必要だということを改めて意識したところである。
 文章の内容を耳で聞いている人に正確に伝えるためには、アクセントや間の取り方などの知識を得ることとともに、声の出し方を勉強する必要があるようだと感じ、さっそくハウツーものの本を読みだした。
 声の出し方の鍵は、呼吸、発音、滑舌。腹式呼吸により吐く息をコントロールし、声帯に負担をかけないよう首、肩をリラックスさせ、舌を反って空気の通りがよくなるようにし、舌の動きとともに下唇を縮める力により、いい声が出せるようになるのである。
 そこで私の現状はどうかというと、舌が分厚くて反っていないので空気の通りを邪魔している。それは舌の筋力不足によるものらしい。それに唇のまわりも老化からの筋力不足。どうやら、口笛が吹けない原因はこの辺にあるようだが、筋トレで解消できるとも書いてある。
 さあ、これはたいへんだ、というより、これはおもしろいことになったぞという思いが強い。
 新たな目標ができた。いい声できちんと情報を届けて、気持ちよく口笛を吹いてみたいものだ。(2015.10.22)。