「明るい戦争」
明治27年の日清戦争に勝利し日本は台湾を植民地とし、明治37年から始まった日露戦争の勝利により、5年後に韓国を併合、植民地としました。昭和6年には満州事変を起こし、満州全域を占領、翌年には満州国を成立させ、日本の操り人形として支配していきます。そして昭和12年日中戦争が始まり、この日中戦争の最中、昭和16年にアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入して行きます。
日本とアメリカには圧倒的な戦力の差があったことはわかっていたのに、なぜ日本は戦争に踏み切ったのでしょうか。
東京大学文学部教授の加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』によれば、日本の当局はその絶対的な差を認識していて、国民に隠そうとはしなかったようで、むしろ物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を掲げ、国力の差を強調すらしていたというのです。
ということは、絶対的な国力の差を理解しながらも、開戦を積極的に支持していた人たちがいたということなのでしょうか。
当時、中国文学を研究していた竹内好という人物の開戦の報を聞いての文章が紹介されています。「日中戦争は気が進まない戦争だったけれど、太平洋戦争は強い英米を相手としているのだから、弱い者いじめの戦争ではなく、明るい戦争なのだ」という感慨を述べているのです。小説家の伊藤整も日記の中で「実にこの戦争はいい。明るい」また、山形の農民の日記でも「いよいよ始まる。キリリと身の締まるを覚える」と書いています。知識人も農民も同じような受け止め方をしています。
明るい戦争という受け止め方には、私は理解できません。日清、日露、日中戦争で何万、何十万人もの人たちが亡くなっている殺し合いを経験していて、平和を望んでいたはずなのに、明るいという形容詞がなぜ使われるのか理解に苦しみます。
これは、国、陸軍のプロパガンダの成果ということになるのでしょうか。特定の価値観や思想に誘導されていて、そのことにさえ気が付かない状況になっていて、自分は正しいと思い込んでいたということになるのでしょう。同じ思いや価値観の人が集まるとその雰囲気の中では正しい判断ができなくなるというのは、日常でもありうることですが、日本全体がその形になってしまい、異論が出ないということになると、実に恐ろしいことです。
過去の戦争の歴史を学ぶことによって、現実の緊張感を覚えてしまいました。
(2017)
「だいじょうぶですか」
先日、孫たちとディズニーランドへ行ってきました。5歳の女の子は子どもから夢見る少女になり、2歳の男の子は会場内を飛び回ったり、大人をおちょくるような態度を取ったりしてきます。今までできなかったことができるようになり、自分の世界がどんどん広がっていく喜びを全身で表しています。
逆に、今までできていたことができなくなったら。
高齢になり自分一人では外出が困難な人のために病院へ車で送迎するボランティアをやっていたときのことです。
病院の玄関へ横付けし、どのくらい待つことになるか確認するため、利用者の方と一緒に受付まで行こうとすると、その70代の女性は「すいませんねえ」と言い、私の腕にそっと手をまわしてきました。それは、本当は誰かの世話になりたくないんだけど、足がおぼつかなくなって、ほんのちょっと支えてくれれば何とかなるのよ、という気持ちを込めた力の入れ具合であることが伝わってきました。
薬局では、自分の名前を呼ばれても聞き取れなかったり、薬剤師とのやりとりでもうまく説明できなかったりして、涙ぐんでいるようでした。ここで私が間に入ればスムーズに進むのではないかという気がしましたが、あえてそうはしませんでした。彼女が自分だけでできずに、また誰かの世話になってしまったという思いを強めるだけだと思ったからです。
今までなんでもないようにできていたことが、いつの間にかできなくなる。これを感じたときに自分をみじめに思ってしまいます。そのような人に、だいじょうぶですか、と声をかけ、私が何でもしてあげますよ、と手を差し伸べることは独りよがりのような気がします。
気持ちの伴わない言葉はその人にとっては空々しく聞こえるに違いありません。心配などされたくない、という感情にしてしまいます。上から目線では共感は得られません。
無神経な言葉にしないためには自分がその立場になることを想像してみることが必要だと思います。
高齢になったり、体が不自由になったりした人たちが、生活する上でどのような困難があるかを知り、どのような気遣いを求めているかを考え、その人の横に寄り添う感覚が大事であると考えます。想像力が上から目線を同じ目線まで下げてくれるのです。
前を向いて、目線を上に向けて、お互いに気持ちよく手が触れ合える雰囲気になることを願っています。自分もたどる道ですから。
(2017)
エッセー集
「終活」
私の心に重くのしかかっていることがあります。
2019年 9月 高校の同級生 享年66
2020年11月 高校の同級生 享年67
2021年 4月 高校の同級生 享年68
2022年10月 大学時代の友人 享年67
2023年 4月 大学時代の友人 享年67
毎年、5年連続で、自分の人生に大きく関わった人たちが一人ずつ消えてゆく。そのスタートが自分であり6年連続に加わっていたかもしれない。2018年12月享年65と。
あの日、2018年12月22日新宿で心筋梗塞で倒れて、運よくすぐに手術が可能だったので一命を取り留めることができました。上高地(神降地)の雪の上を歩くというツアーに参加するために新宿駅に着いたときのできごとです。もし上高地の大正池あたりで倒れたら死神に出会い、人生がその場で終わっていたかもしれない。生死の境は常に存在するということを深く心に刻むこととなったのです。
終活という言葉を最近よく耳にしますが、これは文字通り自分の人生をすっきり終えるための活動です。墓や財産のことだけでなく、自分の人生の最終章の準備をしておくことでこれからの人生がより充実して自分らしく生きていくことができるという考え方です。要は、この活動により心残りを少しずつ減らしていこうということです。
前々から気になっていた家の改築、庭の整備をしました。前々からやりたいと思っていたカルチャースクールで水彩画の勉強を始めました。福祉ボランティア活動にも参加しています。自治会活動もしています。現役時代と大きく違う点は、人の評価を気にしなくていいということです。自分の気持ちに正直に反応して行動しています。
今なら、死神が近づいてきても、さあ、行きましょうか、と言えそうです。
(2023)