(17)一期一会
 私は写真を撮りにいろいろな場所へ出かけ、きれいな花や美しい風景を写真に収めるのですが、ある程度のところで次回はもっといい写真が撮れるだろう、との思いから帰ってきてしまうことがあります。しかし、その次回はなかなか訪れないものなのです。
 山登りがいい例です。山登りをしながらまわりの風景を写真に撮りながらも、どうせ下りの時に同じ道を通るのだからその時にまたもっと撮ろうと思っていると、下りになった時にはもう雲が出てきてきれいな場面を目にすることができないという事態になるのです。その「場所」でのその「時」は二度とないのかもしれないぞ、と教えてくれてるような気がします。
 これは、人間関係でも同じなのだろうと思います。この日本の中で一緒に生きていながら、それぞれの人生の都合でもう二度と会わなくなってしまう場合もあります。きょう、箱根駅伝を見ていたのでなおさらなのですが、大学の時の同期生や先輩、後輩とあのとき、あそこで別れたときには二度と会うことがないだろうなんて思ってもいません。
 卒業とか退職とか明確な区切りがある別れだけでなく、ふと気が付くと自分の中から消えているという人もあります。
 以前から思っていたことなんですが、さよならも言わずに別れたままになってしまった人に、もう一度会いたいという気持ちがあります。会ったからといって、それから親交を深めようとの思いがあるわけではありません。ただ、もう一度会いたいというものです。でも、たぶんそういう人にはこれからも会うこともないでしょう。
 そんな思いから、これからは、これまで以上に一期一会を大切にしていきたいと年の初めに思います。(2016.1.3)

私のエッセー集

(23)ある投稿から

息子の道
 ボクシングの長谷川穂積選手が9月16日、世界ボクシング評議会(WBC)スーパーバンタム級のタイトルマッチを制し、5年ぶりにチャンピオンになりました。新聞記事を読んで胸がいっぱいになりました。負けが続き、引退もうわさされた中での勝利です。家族やたくさんの人の支えがあったとはいえ、やはり彼をここまで続けさせてきた原動力は、ボクシングというスポーツの魅力なのでしょう。
 私の息子もボクシングに魅了された一人です。アルバイトで生計を立てながら、今、プロボクサーの道を歩んでいます。
 中学生の時からジムに通い、高校は九州の強豪校で3年間の寮生活を送り、卒業後はまさかのプロ試験合格。あれよあれよという間に自分の道を進み、親元を離れていきました。
 格闘技に全く縁のない私は、けがの心配はもちろん、将来の不安も息子にぶつけました。なんでボクシングなのか、どうしても理解できなかったのです。
 でも今はわかります。この道を閉ざしていたら、人を思いやる優しさも、周囲への感謝の気持ちもきっと息子には生まれなかったに違いないと。厳しいトレーニングと水分さえも制限するきつい減量に耐えながら試合に立つ姿を見て、正直、今でもほかにもっと楽な仕事があるだろうにと切なくなります。
 自分が打たれるよりつらい試合をあと何回見ることになるのかわかりませんが、大きなけがなく、息子が笑顔で終止符を打つ日が一日も早く来ることを祈っています。
(毎日新聞)

(24)のたうちまわるのは誰?
 
 助走なしに1m以上の柵を乗り越える。2mの高さはよじ登る。20㎝の隙間があれば、くぐり抜ける。走れば時速45㎞。運動能力抜群。

 さて、これは誰のことでしょうか。答えはイノシシ。
 新潟県にある標高2400mの火打山の山頂付近でイノシシの姿が確認されました。ここは、絶滅の恐れがあるライチョウの生息域の北限になるところ。イノシシの出現により、ライチョウの生態系が脅かされるのではと危惧されます。
 なぜ、彼らが高い山まで登って行ったのか。
 それは、強い繁殖力にありそうです。彼らは成長が早く、春に生まれて、翌年には出産オッケーの体になります。1年に4頭から8頭産み、天敵は猟師以外になく、足し算ではなく、掛け算の勢いでどんどん増えている状況です。今まで住み慣れた場所では仲間の数が多くなり、えさが足りなくなったことで、臆病な彼らとしても、しかたなく人里まで足を延ばすことになったのです。都会でも高い山の上でもどこにでも行きます。おいしいものをいっぱい食べたいから。
 そんな彼らの行動が問題を起こしています。畑の農作物を食い荒らし、田んぼの中をぬたうち、米が取れなくなるなど、被害が後を絶ちません。
 余談ですが、彼らは、体についた虫などを落とすため泥浴びをします。その場所を「ぬた場」と言います。全身を泥の上でぐねんぐねんとすりつけるようによじる様子を「ぬた打つ」と言い、「のた打つ」になり、激しい痛みにのたうちまわる、の語源になったのです。
 浜松市では、昼間、公園の遊歩道で8人に襲いかかり、桐生市では牙により死亡させました。
 彼らは高い学習能力を持ち、臭覚は犬以上、鼻の力は70kg以上を持ち上げ、あごの力は骨をも砕く。雄には牙もある。
 そんな超人の彼らを捕獲するにはどうするか。
 むずかしいのです。どうしたらいいんだ、と悩み苦しんで、のたうつのは人間の方なのです。(2016.12.3)

 

(18)3月11日

 当時、息子夫婦は東京に住んでいました。
 あの日、彼女は「明日から産休に入ります。」と柏市にある職場でみんなに挨拶し、4月下旬の予定日までのことを多少の不安とともに思いを巡らしていました。
 午後、大地震。
 彼女は、このまま職場に残ろうか、自宅に向かおうか迷いながらも、友達の運転する車で渋滞の中を10時間以上かけ、無事に家にたどり着きました。深夜でした。その報告を息子から受け、私たち夫婦は本当にほっとしました。今までこれほどまでに安否を気遣うという経験はなかったのですから。
 1か月後、かわいい女の子が誕生しました。
「当たり前だと思うことが、ほんとうは奇跡の積み重ねなのね。」妊娠、出産に対しての妻の言葉です。
 その妻は、あの日一人で夜中じゅう、家の中の片づけをすることになってしまいました。パソコンは吹っ飛び、写真の額縁が落ち、ガラスが飛び散り、金魚鉢の水がこぼれ、手間のかかる作業でした。外には瓦が四方に飛び、地面に突き刺さっていました。
 私はその頃、職務に専念していました。避難所に物資を届けるという役目でしたが、この先何が起こり、どう対応したらいいのか先の見えない状態での不安とともに、家族や家の状況のことも頭から離れませんでした。
 私たち家族を見ただけでも、それぞれの思いがあの日にはあります。
 命の大切さ、尊さを改めて考えさせられ、そして、はかなさも思い知りました。
 いつもどおりに朝を迎られることが当たり前ではないことも胸に刻みました。
 あの日を忘れてはいけないと思います。(2016.3.5)

(19)想定内?
 
 学ぶということを怠るとどうなるのでしょうか。
 熊本での地震の発生域が広がっている中で、原子力規制委員会が鹿児島県にある九州電力川内原発の稼働を継続すると発表しました。こんな発表を誰が納得するだろうか。どういう根拠に基づいているのだろうか。あるいは根拠はあるのだろうか。識者の見解では、一連の地震は想定内の規模で原発耐震性に問題はない、と支持していますが、今回の地震の動きが予想を超えている状況にあると専門家は指摘しています。それが想定内と決めつけられるのでしょうか。福島の事故の状況をあえて思い出すまでもなく、想定内という発想自体が間違った判断を招いてしまうということです。
 熊本県の方々は、台風などの大雨などには注意を払っていても、地震についてはあまり想定していなかったような話も聞こえてきますが、地震国ニッポンである、いつ、どこで大きな地震が起きてもおかしくないということを頭に入れておくべきでしょう。
 福島で何が起こったか、それによって何がどう変わったか、そして実際にどう行動すべきか、その教訓を学んでいかないと、熊本の次に起こる場所でまた同じ間違った判断をしてしまうのではないでしょうか。(2016.4.24)

(20)寄り添う

 先日、孫たちとディズニーランドへ行ってきました。5歳の女の子は、もう子どもから少女になりつつあり、2歳の男の子は大人をおちょくるような態度を取るようになりました。今までできなかったことができるようになり、自分の世界がどんどん広がっていく喜びを全身で表しています。
 逆に、今までできていたことができなくなったら。
 病院への送迎ボランティアをやっていたときのこと。病院の玄関に車を横付けし、どのくらい待つことになるか確認するため一緒に受付まで行こうとしたとき、70代の彼女は「すいませんねえ」と言い、私の腕にそっと手をまわしてきました。それは、本当はみんなの世話になりたくないんだけど、足がおぼつかなくなって、ほんのちょっと支えてくれれば何とかなるのよ、という意思を示す力の入れ具合でした。
 また、薬局では、自分の名前を呼ばれても聞き取れなかったり、薬剤師とのやりとりでもうまく説明できなかったりしたようで、涙ぐんでいました。たぶん、私が間に入ればスムーズに進んだのではないかという気がしましたが、あえてやめました。彼女は自分だけでできずに、また人の世話になってしまった、という思いを強めるだけだと思ったからです。
 今まで何でもないようにできていたことが、いつのまにかできなくなることが自分をみじめな思いにさせてしまうのです。そこに、さあ、私が何でも手伝ってあげますよ、と手を差し伸べ、大丈夫ですか、大丈夫ですか、と声をかけることはこちらの独りよがりのような気がしてきます。
 これからの私自身がたどるかもしれない道です。寄り添うには、どうすればいいのでしょう。(2016.6.4)

(21)成田闘争

 昭和46年、それはもう45年も前のことになるんだなと、改めて思いました。
 先日、成田空港の近くにある「成田空港 空と大地の歴史館」に行ってきました。ここは、成田空港会社が運営する施設で、5年前にできたそうです。先週テレビで紹介されたのを見て初めて知りました。空港をめぐり、この地に刻まれた歴史を後世に伝えなければ、との思いを込めた施設です。
 昭和46年は、成田空港建設に向けて代執行が行われ、反対派である農民と学生が機動隊と激しくぶつかり合い犠牲者が出た年です。この年は、「連合赤軍」「総括」という言葉がマスコミに数多く出始めたときでもあります。その総括された者のうちの2人は私の家の近く(2キロ先)に埋められるという事件もありました。高校3年の私にとっては、理解しがたい世の中となっていました。
 その高校3年生の目に焼き付いている場面があります。
 京成成田駅を出たところで、パトカーがすぐ前を通り抜けようとしていた。その窓ガラスは開いていて、後部座席にはヘルメットをかぶり目を閉じたままの警察官が乗っていた。その顔は真っ赤だった。
 おそらく火炎瓶をまともに浴びてしまったのだと容易に想像できました。
 成田闘争では、ボタンの掛け違いという言葉が出てきます。地権者である農民に事前に充分な説明をすることなく、閣議決定だからと国が進めてしまったボタンです。
 1つ目のボタンのずれもボタンが3つか4つ目にもなると、ずれていることさえ分からなくなってしまうのではないでしょうか。この施設でそのずれを改めて考える機会を得ることができました。(2016.7.10)

(22)驚いた

 本屋で何気なく手にした星野道夫という写真家の書いた『旅をする木』というエッセー集がなかなかおもしろく、この人自身への興味がわいてきて、すぐに買い求めたのがPHP研究所から出ている『星野道夫 アラスカのいのちを撮りつづけて』という本です。アラスカを拠点にして厳しい自然と動物たちの姿を撮り続けた写真家の生い立ちから43歳でヒグマに襲われて亡くなるまでを、夢や理想に向かってひたむきに努力し大きな成果をつかんだ人の一人として紹介する内容です。
 この本を読み始めて、すぐに残念な気持ちとなってしまいました。駄文です。
 一般的な例で言うと「レストランに食べに行きました。おいしかったです。また来たいです。」というたぐいの文で、文章を細かく切っているのです。ステーキを1センチ角くらいに切り刻んだような文となり、せっかくの肉汁を味わうことができないのです。

 この文章を書いたのは、日本児童文学者協会に属する方だそうで、この本は全国学校図書館協議会が定める「夏休みの本」として小学校高学年に推薦されています。小学生が読める形にして紹介したのだそうです。
 星野さんは神田の古本屋街の洋書専門店で一冊のアラスカの写真集を見つけ、それがアラスカで自分の人生が動き出したきっかけになったということです。20年後、その写真集の写真を撮った本人ジョージに巡りあえたのです。そのときの情景を星野さんのエッセーでは「その古い写真集を取り出し、これまでのいきさつを話した。そのとき、ジョージの目の奥が、優しく笑っていた。」と表現しています。一方、児童文学者の文章では、「彼は驚いた。」という表現です。
 小学生が読める形とはこういうことを言うのでしょうか。
 小学生だからこそ、平板ではなく奥行きのある表現に接することが、学ぶということにつながるのではないでしょうか。きちんとした児童文学者が出てくることを望みます。(2016.7.16)