(8)自らを衛る

「現在の自衛隊を憲法にしっかりと位置づけ、合憲か違憲かといった議論は終わりにしなければなりません。」と2017年6月に安倍首相が話しています。
 自衛隊が合憲か違憲かの判断が確定できないのは、憲法の解釈がいろいろできてしまうからです。
 憲法9条では、「戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」とあります。これを、国際紛争を解決する手段ではなく、自衛のためならば持つことができると解釈するのが歴代の内閣の判断です。また、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。」これに対し、自衛隊は戦力ではなく、自衛のための必要最小限度の実力と説明しています。
 安倍さんは、もうこういう詭弁はやめましょう、自衛隊に対して失礼である。だから憲法を改正して明記しましょう。という理論展開なのです。一見すっきりする考えのように聞こえてしまいますが、はたして正論でしょうか。
 たとえば、道路交通法で、この区間の制限速度は40キロですとなっているところで、実際にはそんなに速度を抑える必要もなさそうだからとみんな60キロで走っている。ならば道路交通法を改正して60キロにした方が現実的じゃないの、改正しようよ。ということと同じレベルの話のような気がするのです。
 そもそも40キロに制限したときの判断の確認とそれを変える必要性の議論をしていないでしょう。なのに、60キロがいいか、50キロがいいか、しっかり議論していきましょう、と言っているようなものだと思うのです。
 なぜ今、改正する必要があるのか、それを議論されないまま、改正ありきで進められているのです。国会できちんと議論してほしいところですが、9条2項の維持か削除かの論点にいきなりなってしまっています。流れに乗らされていないですか。
 自衛隊とはどんなものか、北朝鮮は本当に脅威なのか、Jアラートは役に立つのか。私たち自らも一つ一つをていねいに考えて、自分を守らなければならないと思うのです。

(1)だいじょうぶですか

 先日、孫たちとディズニーランドへ行ってきました。5歳の女の子は、子供から夢見る少女になり、2歳の男の子は、会場内を飛び回ったり、大人をおちょくるような態度を取ったりしてきます。今までできなかったことができるようになり、自分の世界がどんどん広がっていく喜びを全身であらわしています。
 逆に、今までできていたことができなくなったら。
 高齢になり自分ひとりでは外出が困難な人のために病院へ車で送迎するボランティアをやっていたときのことです。
 病院の玄関へ車を横付けし、どのくらい待つことになるか確認するため、利用者の方と一緒に受付まで行こうとすると、その70代の女性は「すいませんねえ」と言い、私の腕にそっと手をまわしてきました。それは、本当はみんなの世話になりたくないんだけど、足がおぼつかなくなって、ほんのちょっと支えてくれれば何とかなるのよ、という気持ちを込めた力の入れ具合であることが伝わってきました。
 薬局では、自分の名前を呼ばれても聞き取れなかったり、薬剤師とのやりとりでもうまく説明できなかったりして、涙ぐんでいるようでした。ここで私が間に入ればスムーズに進むのではないかという気がしましたが、あえてそうはしませんでした。彼女が自分だけでできずに、また人の世話になってしまったという思いを強めるだけだと思ったからです。
 今まで何でもないようにできていたことが、いつのまにかできなくなる。これを感じたときに自分をみじめに思ってしまいます。 そのような人に、だいじょうぶですか、と声をかけ、私が何でもしてあげますよ、と手を差し伸べることは独りよがりのような気がします。
 気持ちの伴わない言葉はその人にとっては空々しく聞こえるに違いありません。心配などされたくない、という感情にしてしまいます。上から目線では共感は得られません。
 無神経な言葉にしないためには自分がその立場になることを想像してみることが必要だと思います。
 高齢になったり、体が不自由になったりした人たちが、生活する上でどのような困難があるかを知り、どのような気遣いを求めているかを考え、その人の横に寄り添う感覚が大事であると考えます。想像力が上から目線を同じ目線まで下げてくれるのです。
 前を向いて、目線を上に向けて、お互いに気持ちよく手が触れ合える雰囲気になることを願っています。自分もたどる道ですから。


(市の社会福祉協議会主催の「団塊世代の作文コンクール」で優秀賞となりました。
審査委員長である順大の先生の講評
「相手の立場に立って行動する、というのは正解はないかもしれません。でも相手のことを心から想う、気持ちの伴った言動が、真に相手に寄り添える態度となってあらわれるのでしょう。ご自身の体験をもとにした、作者の意志と優しさを感じる作文でした」)

 

After

Before

(2)終活
 
 春になったところで庭のリフォームに取りかかりました。
 幸運なことに私の家の庭は広く、まだゆとりのあった時代に調子に乗って植木と石をふんだんに使い一見金持ちの庭のようなものを作ってしまいました。あれから20数年たち、それぞれが大きく生長したことにより、それぞれが影を作りあい、いつ花が咲いたかもわからないような、お日様にも人目にもつかない存在感のない一角となっているのです。
 存在感がないとはいえ、草刈り、草取りは必要なわけで、これが結構エネルギーを使うことであり、今までの20年間はできたとしても、これから20年先まで考えると相当きつい作業になります。そのため、今まで人知れず花を咲かせてきたものを優先的に残し、あとは退いてもらうことにしました。その空いたところはきれいな砂で覆い、草の生える余地をなくしたのです。これは自分のためだけではなく、次の代まで想定するとなるべく負担にならないようにとの配慮が必要だと思うからです。
 このリフォームはいわば「終活」です。この言葉は、文字通り自分の人生を終えるための活動ですが、墓や財産のことだけでなく、自分の人生の最終章の準備をしておくことで、これからの人生がより充実して自分らしく生きていくことができるという考え方です。要は、この活動により心残りを少しずつ減らしていきたいということです。
 この活動は60代でやっておくべきと考えています。決断力、行動力は70代、80代ではどうしても落ちていきます。そして何より「気力」がなくなります。つまりは「おっくう」になるということです。まだ脳細胞がきちんと活性化しているいまのうちに、細かなことを整理しておきたいと思っているのです。(2017.4.7)

(4)ある投稿から

 先日の新聞の投稿欄に、スーパーのレジでアルバイトをしている20歳の大学生の「支払いの遅い高齢者に対する思いやりの心をもっと持ってほしい」という記事が掲載され、今の自分と照らし合わせて考えてしまった。

 私は今年還暦を迎える。街中で買い物をしてレジに並ぶとき、バッグから老眼用のメガネと財布を取り出し、ポイントカードを忘れないよう用意する。ここ最近、急速に進む老眼で財布の中身が見えにくい。更年期を過ぎてからは、右手の指の関節が曲がり、痛みもあるので小銭を出すのも一苦労になった。耳も少し遠くなって金額が聞き取りづらいので表示されるレジの画面を一生懸命のぞき込む。それでも後ろに人がたくさん並ぶと気持ちがざわざわする。まして、まだ会計が終わってないのに、後ろの人が買った物を台にどさっと乗せると「早くしろ」とせかされているようで焦ってしまう。
 高齢者にはまだ少し若い私でも、10年ほど前には想像もしていなかった身体の変わりようである。まだ20歳の大学生の方がバイトをしながら、高齢者に寄り添っている様は本当にありがたく、心強い限りである。
 私が同じ年頃の時にはとても思いも及ばなかった想像力と気遣いに頭が下がる。人間誰しも自分が体験したり、同じ境遇にならないと、相手のことがなかなか理解できない。
 私もこれから少しずつでも世の中の弱者といわれている人たちに心を寄せていけるよう、心の目だけはくもらせないで日々過ごしていきたいと切に思う。

 

(5)明るい戦争
  
 明治27年の日清戦争に勝利し、日本は台湾を植民地とし、明治37年から始まった日露戦争の勝利により、5年後に韓国を併合、植民地としました。昭和6年には満州事変を起こし、満州全域を占領、翌年には満州国を成立させ、日本の操り人形として支配していきます。そして昭和12年、日中戦争が始まり、この日中戦争の最中、昭和16年にアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入していきます。
 日本とアメリカには圧倒的な戦力の差があったことはわかっていたのに、なぜ日本は戦争に踏み切ったのでしょうか。
 東京大学文学部教授の加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』によれば、日本の当局はその絶対的な差を認識していて、国民に隠そうとはしなかったようで、むしろ物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差を強調すらしていたというのです。
 ということは、絶対的な国力の差を理解しながらも、開戦を積極的に支持していた層がいたということです。
 当時、中国文学を研究していた竹内好という人物の開戦の報を聞いての文章が紹介されています。「日中戦争は気が進まない戦争だったけれど、太平洋戦争は強い英米を相手としているのだから、弱い者いじめの戦争ではなく、明るい戦争なのだ。」という感慨を述べているのです。小説家の伊藤整も日記の中で「実にこの戦争はいい。明るい。」また、山形の農民の日記でも「いよいよ始まる。キリリと身の締まるを覚える。」と書いています。知識人も農民も同じような受け止め方をしています。
 明るい戦争という受け止め方に、私は理解できません。日清、日露、日中戦争で何万、何十万人もの人たちが亡くなっている殺し合いを経験していて、平和を望んでいたはずなのに、明るいという形容詞がなぜ使われるのか理解に苦しみます。。
 これは、国、陸軍のプロパガンダの成果ということになるのでしょうか。特定の価値観や思想に誘導されていて、そのことにさえ気がつかない状況になっていて、自分は正しいと思い込んでいたということになるのです。同じ思いや価値観の人が何人か集まると正しい判断ができなくなるというのは、日常でもありうることですが、日本全体がその形になってしまい、異論が出ないということになると、実に恐ろしいことです。
 過去の戦争の歴史を学ぶことによって、現実の緊張感を覚えてしまいました。

(2017.8.11)

(6)みんなといっしょ

 インターネットの画面を見ていると、「話題のコレ買った?」「話題なう」「ネットで話題の〇〇」などという言葉がよく出てくる。へえ、今こういうのが流行っているんだ、と思うものの本当にそうなのかな、誰かの思惑があるんじゃないの、と疑いたくもなる。
 最近耳にした言葉であるが、今の人たちは、ネットでみんなが話題にしている人気の商品を自分も購入したがる。つまり、ネットが普及した今の方が長いものに巻かれたがる人が増えている。多様性が認められて何でも自由にできるからこそ、誰かと一緒のことをしたい、というのだ。
 誰かと一緒のことをしたい。以前聞いたことがある言葉を思い出した。「自由は孤独である。」と。だから、誰かとつながっていたいのならば、一緒のことをするということの表れなのかもしれない。
 こんなこと考えていたら、前々から気になっていた世論調査と結びついた。新聞社やNHKが内閣支持率などで使っている世論調査は、国民みんなの考えの動向を見る手段となっているが、使い方によっては世論の操作になり、大多数の意見に追随させる動きともなり、その結果に影響される状況を作ってしまうことになる。
 この世論調査の結果はパーセンテージで表されるが、実際に回答しているのは千人前後であり、1億2千万人の意向と言えるのか疑問であるが、統計学からみればそれほど問題はないと言う。ただ、問題なのは、質問文の表現、選択肢の設定の仕方で結果が違ってくるということだ。「そう思う」「そうは思わない」という二者択一の場合と「どちらとも言えない」という項目を作った場合では、三者の「そう思う」の数値は下がるということになるそうだ。
 いずれにしても、多数派に属していれば孤独にならず、みんなと一緒ならば平穏に暮らせるということを思うのだろう。選挙の投票でも、世論調査の結果を見た上でどの政党が「最も多く」と表現されるかによって自分の投票する相手を決めるということもありそうだ。
 マスメディアからの情報をそのまま受け止めることなく、世論の内容をしっかり見定める力を持って置かなければ長いものに巻かれてしまいかねないと思う。(2017.11.14)。

私のエッセー集 2018&2017

(3)言葉のプロ
 
 TBSテレビで「プレバト」という俳句の才能を競う番組を興味深く見ています。五七五の17文字で情景を表現するのはなかなかむずかしいなと思いながらも、言葉の組み合わせやテ二ヲハの使い方次第ではっきりと映像が浮かぶようになるのは、さすが言葉の描写が豊富なプロだねと感心してしまいます。
 政治家も言葉のプロということになるのだと思います。政治家は話したことが記録され、後世に残るという仕事をしています。言葉の使い方しだいで印象の残る話し方ができるはずなのですが、昨今は悪い印象しか残らないのは真に遺憾です。
 安倍内閣の閣僚の言葉は崩壊しています。復興大臣が「福島でよかった」と信じられない言葉を発し、防衛大臣は「戦闘ではなく衝突」と言葉を言い換え、首相は「総理大臣ではなく自民党総裁として」などと使い分け、まともな議論をしようとしないのです。
 議論が民主主義の原則という言葉を出さずとも、当然議論をするべき国会の場で議論を拒絶するとはどういうことなのでしょうか。安倍首相は「読売新聞を読んでくれ」と言い、菅官房長官も「承知してない」「のように聞いています」と言って、それ以上説明せず、自民党の竹下国対委員長も「調査の必要がないから。それが理由だ。」と突っぱねるという態度を取っています。。
 これらの言葉には国のため、国民のため、などという意識は全く存在しないのだろうか。野党議員の後ろ、記者の後ろでは国民が見ている、聞いている、という意識、配慮が、そして国民に対しての忖度が完全に欠けているように思うのです。
 「私はきちんと将来の国のことを考えているんだ。私たちに黙ってついて来れば幸せになれるんだから、何も心配しなくていいんだよ。」

 こんな言葉が見えてくる印象操作に惑わされることなく、言葉のまやかしや言葉の裏を冷静に見る目は保っていかなければと思うのです。

(7)リアリティー

 いつの間にか涙がこぼれ落ちてきていた。
 感動して感情が高ぶり涙が出てきたということはいままでもあったが、冷静に見ていたつもりがその中に自分も入り込んでいたようだ。
 テレビドラマ『コウノドリ』を見ていた時のできごとである。できごとと言ってもいいくらい印象に残るものとなった。
『コウノドリ』は出産を巡る医療の現場を描いたドラマである。妊娠、出産のリアルを丁寧に表現していて番組制作者の真剣さがうかがえる。
 私の妻の言葉であるが「無事に産まれてくることは、当たり前ではなく、奇跡の積み重ねの結果なの」その言葉がドラマの場面場面で浮かんでくる。妊娠、不妊治療、死産、障害児、中絶、出生前診断。今の医療現場が直面している事柄である。
 まだ出産を経験していない人たちは「妊娠ってそんなに大変なんだ。赤ちゃんとか親まで死んじゃったりするの?」という感想を持つであろう。自分の母親からも聞いていないようなことをドラマを見て知ることとなる。
 そして、さまざまな事柄だけに終わらず、当事者の不安、迷い、決断の流れの中で当事者や医師の表現する言葉を通して、人の命の尊さまで考えさせてくれる。母親として、父親として、家族として命に寄り添うとはどういうことか。特に男はどうしても実感がわかない部分であるが、人として命を感じるとはどういうことか。それを考えていると、ドラマがドラマではなくなるのである。
 また、登場人物たちが仕事の悩みや自分自身の不安、将来への迷いなどを抱えながらも前を向いていく姿に「悔しいよね、でも、めげるな。」「そうだよ、そんなふうに受け止めようよ。」「そう、人に頼っていいんじゃないの。」と自分自身と重ね合わせて、自分に言い聞かせているのである。
 今年はいいドラマがたくさんあった。
『ドクターX』では「私失敗しませんので」という言葉で、小気味よく、すっきりした気分。
『陸王』では障害物レースのような展開と町工場の社長のしぶとさに敬服。エキストラの数に驚き。
『精霊の守り人』では綾瀬はるかの殺陣のカッコよさにほれぼれ
 いい時を過ごせたと感じた。(2017.12,30)